2008年8月12日火曜日

BRUCE LEE

Dont`Think, Feel!」

この言葉がいまだに耳から離れない私です。

さて、そのBRUCE LEEの生い立ちですが、

出生・幼少時代
父親の中国系で広東演劇の役者、李海泉とドイツと中国系の母親
グレースが家族を連れて長期アメリカ巡業中、辰年の1940年11月27日、
辰の刻(午前8時)にサンフランシスコのチャイナタウンの病院で生まれた。
五人兄弟の次男(兄ピーター、姉フィービー、アグネス、弟ロバート)。
映画には芸名の李小龍で出演している。生後3ヶ月あまりで
サンフランシスコで製作された映画『金門女』(中国)に出演した。
その後香港に帰国、8歳頃から子役として数多くの映画に出演。
幼少より、中国武術(中国大陸では武術、台湾等では国術(國術)とも
呼ばれる。
海外ではカンフーの名称が一般的だが、空手や拳法と誤認される
こともある)の一派である詠春拳の葉問(イップ・マン)の指導で
中国武術を身につける。
少年の頃、道場にはバスで通い、バス停で他の生徒に「今日も休みだ」
と嘘をついて帰らせ、葉問の個人レッスンを受けたという逸話がある。
また上海精武体育会香港分会にて北派少林拳の邵漢生に指導を受け、
節拳(弾腿門)などを学んだ。


不良時代、渡米・結婚
香港では、喧嘩が法律で禁じられていた。
しかし、俳優の息子で自らも映画に出演し、当時でも珍しい中国服を
着ていたことから街で目立ち、気性が荒かったリーは
「何をジロジロ見てるんだ」と難癖をつけて、毎日のように暴力沙汰を
起こしていた。
16歳で香港のラサール学院を退学処分となりフランシスコ・ザビエル校に
編入しても、喧嘩を繰り返した。また、ダンスのチャチャチャの
コンテストで優勝するなど、勉学よりも喧嘩や女性との交際に熱中していた。
何不自由なく育ったリーの将来を心配した父は、「俳優の不良息子
」として悪名を知られた香港から離し、渡米を命じる。
(米国で出生届を出していたので永住権があった)
18歳のリーは、わずか100ドルの所持金で単身渡米し、シアトルに移り住む。
新聞配達のアルバイトをして職業訓練学校シアトル・セントラル・カレッジに
通い高校卒業資格を得て、ワシントン大学哲学科に進学。
勉学に励むかたわら、「振藩國術館」を開いて中国武術の指導を始める。
高校で哲学の講師もしていた。その頃、同じ大学の医学生で、
道場の生徒だったリンダ・エメリーと結婚。その後、大学を中退し、
道場経営に専念。

截拳道(Jeet Kune Do/JKD/ジークンドー)を創始する。


武道家からアクションスターへ
1966年、アメリカの「ロングビーチ国際空手選手権大会」で
JKDの演武をしたフィルムが、TVプロデューサーの目に止まり、
TVシリーズ『グリーン・ホーネット』の準主役に抜擢される。
正義のヒーロー「グリーン・ホーネット」の助手兼運転手として
目だけを隠すマスク(このマスクは、後に映画『キルビル』で
「カトーマスク」と呼ばれる)を付けた日系人のカトー役を演じ、
派手なアクションで人気を博す。
これをきっかけに、ロサンゼルスでハリウッドの俳優やプロデューサーを
顧客に武術の個人指導をするようになり、TVや映画などのゲスト出演を重ねる。
カトー役のイメージのため、リーを日本人だと誤解しているアメリカ人も多かった。
『グリーン・ホーネット』の後、アメリカの連続テレビドラマ
『燃えよ!カンフー』を企画し、自ら主演を願った。
しかし、東洋人であることなどを理由に主演の望みは叶わなかった
(主人公の混血児ケインを演じたのはデビッド・キャラダイン)。

1970年、香港の大手映画会社ショウ・ブラザーズ(邵氏兄弟有限公司)から
独立したレイモンド・チョウ(鄒文懐)が設立したばかりの
ゴールデン・ハーベスト(嘉禾娯楽事業有限公司)と映画出演の契約をする。
翌1971年に成人後の初主演映画『ドラゴン危機一発』が公開され、
香港の歴代興行記録を塗り替える大ヒットになった。
リーは、一躍、香港のトップスターに躍り出る。主演第2作の
『ドラゴン怒りの鉄拳』(1972年)では主演と武術指導を担当し、
3作目の『ドラゴンへの道』(1972年)では、自ら
「コンコルド・プロダクション」(協和電影公司、
ゴールデン・ハーベストとの共同出資)を設立し、製作・監督・脚本・主演の四役を担った。
この3作によって、リーは香港で不動のトップスターの地位を築き、
ゴールデン・ハーベストは興行収入で香港最大の映画会社となった。

1972年秋からリーの2作目の監督映画『死亡遊戯』の撮影がスタートする。
ところが、ハリウッドのワーナー・ブラザーズとコンコルド・
プロダクションとの合作映画の企画が持ち上がり、『死亡遊戯』の
製作は中断される。
1973年1月から、米国と香港の合作映画『燃えよドラゴン』
(ロバート・クローズ監督)の撮影が始まる。
かつてハリウッド映画への主演がかなわなかったリーの意気込みは
並々ならぬものがあり、エキストラへの武術指導に始まり、
脚本や撮影にも詳細な意見を出した。
リーはクローズ監督に、「この映画の出来を気にしているのは、
あなたと私だけだ」と語った。
映画の冒頭、リーが少年を相手に「Don't Think. Feel!
(考えるな、感じろ!)」と語る台詞はあまりにも有名だが、
この部分はリーが香港公開用に自ら監督をして勝手に撮影したもので、
当初の脚本にはなかった。
撮り終わったフィルムを見たクローズが、米国公開版にも採用した。


死去

香港のブルース・リーの銅像1973年7月20日、リーは、『死亡遊戯』
で共演予定の女優ベティ・ティンペイ(丁珮) の香港の自宅で頭痛を訴え、
鎮痛剤(アスピリン)を飲んでベッドに横になった。
しかし、そのまま昏睡状態に陥ったため、ティンペイはレイモンド・チョウ
(鄒文懐)を呼び、そのままクィーン・エリザベス病院へ搬送されたが、
死亡が確認された。
公式な死因は脳浮腫(のうふしゅ)である。司法解剖の結果、
微量の大麻が検出されたほか、脳が極度に肥大化していた事が判明した。
リーは、『燃えよドラゴン』の撮影を終えた1973年5月にも同様の症状を
訴えており、死因は背中の古傷に長年使っていた痛み止め薬と、
その晩に服用した頭痛薬の副作用と言われている。享年32。

葬儀は、香港とシアトルで行われた。
香港では数万人のファンが葬儀に押し寄せ、シアトルの葬儀にはリーの
弟子だったジェームズ・コバーンやスティーブ・マックイーンも参列した。
(この葬儀の様子は『死亡遊戯』の中で実際に使われている)
遺体はシアトルダウンタウン近くのレイクビュー墓地に埋葬された。
リーの死後、彼が待望していたハリウッド主演作『燃えよドラゴン』が
米国を皮切りに全世界で公開され、大ヒットとなった。
しかしアクションスターとして世界的な知名度を得た時、
既にリーは亡くなっていた。(日本公開は1973年12月22日)
死後、『ドラゴン危機一発』などの過去の映画が世界中に配給された。

1 件のコメント:

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