2008年8月29日金曜日

Black Sabbath

先日はOzzyの話をしましたが、やっぱりここは避けて通れません。
Tony Iommiに支えられた音楽性の崇高さに脱帽ですよ、ホント。


ブラック・サバス(Black Sabbath)は、イギリスのバーミンガムで
結成され1970年にデビューしたロックバンド。

Heavy Metalの元祖の一つとして知られる伝説的なバンドである。
ジャズやブルースを基調とし、「人を怖がらせる音楽を作る」という
コンセプトで作られた音楽性は後のヘヴィ・メタルに多大な影響を与えた。
その怪奇的なイメージでたびたび黒魔術や悪魔と結び付けられ、
ギターのトニー・アイオミがアメリカン・ツアーの最中、
狂信者に楽屋で刃物を突きつけられたという危険なエピソードもある。
結成当初からメンバー内の交流も公私共に良好で、
ブラック・サバス『若き安息日』という書籍には
「女風呂を必死にのぞこうとするトニー。
その尻を持ち上げるオジー。
それを心配そうに見守るギーザー。
あの瞬間、俺達は初めてのセッションをした。」との記述も残されている。

バンド名の“Black Sabbath”は、ベースのギーザー・バトラーが
1964年公開のホラー映画『BLACK SABBATH』から取って命名した。
その映画の公開時、映画館には長蛇の列が出来ていたことから、
「人間は恐怖を求める」という着想を得たと本人は語っている。
また、デビューアルバム「Black Sabbath」も、1970年2月
"13日の金曜日" という曰くつきの日付にリリースされた。

結成時のヴォーカルはOzzy Osbourneだったが、1979年に脱退。
後任としてRainbowのヴォーカリスト、Ronnie James Dioが加入した。
その後、Ian GillanGlenn Hughesなど、Deep Purple
歴代シンガーがヴォーカルを担当していた。
1987年以降はトニー・マーティン、1992年から1993年にかけて一時的に
ロニー・ジェイムス・ディオが復帰している。
1997年にはオリジナル・メンバーで復活を果たし、数年間ツアー活動を
行ったがライブアルバムをリリースしただけで、
新しいスタジオアルバムは発表されていない。

2007年にアルバム『悪魔の掟』の編成(ロニー・ジェームス・ディオ、
ヴィニー・アピス、ギーザー・バトラー、トニー・アイオミ)でツアーを
行うと発表された。
ただしブラック・サバス名義ではなくHeaven And Hellという
バンド名で行われる。
これはオリジナルメンバーでの再結成の時にオリジナルメンバー以外の
メンツではブラック・サバスとは名乗らないと宣言している為である。

オリジナルメンバー

ボーカル:オジー・オズボーン(1967年 - 79年、2000年 - )
ギター:Tony Iommi(1967年 - )
ベースギター:Geezer Butler(1967年 - 1984年、1994年、2000年 - )
ドラムス:Bill Ward(1967年 - 1979年、2000年 - )

その他の歴代メンバー

ボーカル

ロニー・ジェイムズ・ディオ(元レインボー?ディオ)
イアン・ギラン(元ディープ・パープル?ギラン他)
グレン・ヒューズ(元ディープ・パープル)
レイ・ギラン(ツアーのみ バットランズ)
トニー・マーティン
Rob Halford (ツアーのみ Judas Priest)
ベース

デイヴ・スピッツ(元ホワイト・ライオン)
ボブ・デイズリー(元レインボー他)
ジョー・バート(ツアーのみ)
ローレンス・コットル
ニール・マーレイ(元ホワイトスネイク?VOW WOW他)

ドラムス

ベヴ・ベヴァン(元エレクトリック・ライト・オーケストラ)
ヴィニー・アピス(ディオ他)
エリック・シンガー(キッス)
テリー・チャイムズ(元ザ・クラッシュ、ツアーのみ)
コージー・パウエル(第2期ジェフベック・グループ?元レインボー?マイケル・シェンカー・グループ?ホワイトスネイク他)
ボビー・ロンディネリ(元レインボー)

2008年8月26日火曜日

Jimmy Page

北京オリンピックの閉会式、観ましたか?
というわけで、予定を変更して、Jimmy Pageをご紹介!


ジェームス・パトリック・"ジミー"・ペイジ OBE
(Jimmy Page, 本名James Patrick Page OBE 1944年1月9日 - )は、
イギリスのロックギタリスト、作曲家、プロデューサー。
Eric Clapton Jeff Beckとともに3大ギタリストと呼ばれる。
当時の音楽ジャーナリズムからは「1970年代のPaganini」と形容され、
世界で最も成功したロックバンドの一つであるLed Zeppelin
ギタリスト兼リーダー。
レコード、ステージなど全般のプロデュースも担当した。
イングランドロンドン出身。
Rolling Stone誌の2003年8月号のカバーストーリー
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」に於いて第9位。


演奏スタイル

ペイジのギタープレイはブリティッシュ・フォークやカントリーに
影響を受けつつも、基本的にはブルースを基本としたものである
(繰り返し爪弾かれる短いフレーズは、1920年代に活躍したブルースマン、
トミー・ジョンソンのフレーズを参考としている。1996年BBCドキュメンタリー
『ギタリストの時代』におけるインタビューより)。
アコースティック・ギターの技術の高さ、セッションマン時代を通して
培われたギタープレイの幅の広さには定評がある。


ペイジと黒魔術

ツェッペリン時代、ペイジは黒魔術へ傾倒していると、しばしば噂された。
彼のお気に入りだったとされるAleister Crowleyの遺した言葉が
LED ZEPPELIN III』のレコードに刻まれていたり、
クロウリーの元邸宅を別荘として所有していたなど、状況証拠的にそうだ
と言えなくはないエピソードは幾つも存在するが、「ファッション的に魔術
および魔術的イメージを利用していただけである」との声も少なくない。

真偽の程は別にしても、この妖しげなイメージの為か、ロバート・プラントの
幼い長男が感染症で亡くなるなど、不幸な事故がツェッペリンの周囲に起こる度に、
バンドに反感を持つ人々は、これは「ツェッペリンのカルマ(業)」の故にだと
囃したてた。

当時のバンドに対する嫌悪感を示す有名なエピソードに「Stairway to Heaven」を
逆回転で再生させると悪魔崇拝のメッセージが聴こえるなどと、
米国の著名な宗教番組の説法師であったプロテスタント教会の牧師から
テレビで非難されてしまったという逸話がある。

本人はこれを出鱈目であり、とんでもないナンセンスだと切り捨てている。
また、「天国への階段」の歌詞を作詞したロバート・プラントは黒魔術に
傾倒することなど無かった為、雑誌のインタビュー等でこの逸話について
問われると今でも大きな不快感を表明する。

2008年8月25日月曜日

Metallica

音楽が時代と共に変わっていったと嘆く人も多いと思いますが、
それはLed Zeppelinだって同じ事。
本当のMetallicaの偉大さは、これから理解されていくに違いない。


メタリカ (Metallica) は、1981年にアメリカのロサンゼルスで
結成されたヘヴィメタル・バンド(後に本拠地をサンフランシスコに移した)。

初期はスレイヤー、アンスラックス、メガデスと共に
「スラッシュメタル四天王」の一角と言われており、
1990年代の全米アルバム総売り上げ4位のビッグ・バンドである。

ジェームズ・ヘットフィールド (Vo/G) とラーズ・ウルリッヒ (Dr)
らが中心になって結成された。

元々はアンダーグラウンドが主戦場であり、後にスラッシュメタルと
呼ばれる新しいタイプのヘヴィメタルの先駆者である。

1980年代のMTV黎明期にあって4thアルバムまでビデオクリップ制作を
しなかった事で有名である。

また過激な音楽性、歌詞であったため大手ラジオ局でも
エアプレイされることがほとんど無かった。

しかしバンドを『ファンとの共同体』と位置づけ、ひたすらツアーを
重ねることでコアなファンのクチコミにより人気を獲得していった。

全世界でのアルバム・セールス1億枚以上を誇り商業面での成功も
さることながら、グラミー賞を7回受賞するなど社会的な認知度も高。

コンサートの動員力も高く、90年代の北米でのコンサート動員数で1位を記録する。

また大手マネージメントQプライムに10年以上マネージメントを
任せてきたことも彼らの成功に寄与しているといわれている。


現在のメンバー
ジェイムズ・ヘットフィールド(James Hetfield, 1963年8月3日 - ) (Vo/G)

ラーズ・ウルリッヒ(Lars Ulrich, 1963年12月26日 - ) (Dr)

カーク・ハメット(Kirk Hammett, 1962年11月18日 - ) (G) Joe Satrianiの生徒である。

ロバート・トゥルージロ(Robert Trujillo, 1964年10月23日 - ) (B)

元メンバー
ロン・マクガヴニー(Ron McGovney, 1962年11月2日 - ) (B)

デイヴ・ムステイン(Dave Mustaine, 1961年9月13日 - ) (G)

クリフ・バートン(Cliff Burton, 1962年2月10日 - 1986年9月27日 ) (B)

ジェイソン・ニューステッド(Jason Newsted, 1963年3月4日 - ) (B)

2008年8月23日土曜日

Yngwie Malmsteen

いよいよ新作もリリースされる天才・Yngwie Malmsteenですが
誰が何と言おうと、ハードロックにおける功績は称えられるべきでしょう。

イングヴェイ・マルムスティーン(Yngwie Malmsteen)は、
スウェーデン・ストックホルム出身のミュージシャンであり、
ロック・ギタリスト。『インギー』の愛称で親しまれている
(本人はこの愛称をあまり好く思っていないようだが)。

ロック・ギターにクラシック音楽の要素を盛り込み、驚異的な速弾きで
ギター奏法に大革命をもたらした。

Michael Schenkerの「神」に対して「王者」と呼ばれる。
先祖が貴族、正確には伯爵であるとされる。

楽曲の特徴は、古典的なハードロックにハーモニックマイナー・
パーフェクト・フィフス・ビロウ(和声的短音階)というスケール
(本人が言うところのフリジアンスケール)とアルペジオを主とした
高速なギター・ソロが加わる所である。

Edward Van Halenのように、特殊な新技術を生み出した
わけではなく、あくまでスタンダードなフォームに基づく奏法を究極の
レベルで完成させたところに特徴がある
(実際にはスウィープ奏法や、エコノミーピッキングなどもその
プレイに取り入れており、またそのテクニックの存在を広く知らしめた
という功績も認められる)。

インストゥルメンタルに於いては、大部分がインプロヴィゼーションに基づいている。
その超絶なスケーリングは、19世紀の名バイオリニストであ
るニコロ・パガニーニの技巧に多大なる影響を受けたとされる。

自らが7歳の時にテレビで観てギターを始めるきっかけになったとされる
Jimi Hendrixからの影響はステージ以外ではあまり感じられず、
むしろ彼のスケーリングやジミの解釈に多大なヒントを与えたのは
Ulrich Rothであるとの認識が一般的。

マルムスティーン自身は(スウェーデン時代に初期Scorpions
カバーしていた映像が残っているにもかかわらず)ウルリッヒからの
影響を初期には否定していたが、現在は肯定に転じ、敬愛するギタリストの
一人として挙げている。

一説には、1993年頃「ウリ・ロートがドイツのテレビに出演して
演奏したビデオ」を『YOUNG GUITAR』誌がマイアミの自宅に持参した頃から、
影響を認め始めた、と言われている。

彼からの影響を認めたがらないフォロワーたちにより否定される
こともあるが、ロック・ギターにメロディアスな速弾きを持ち込み、
革命を起こした天才である事実は疑う余地もない。
但し、現在に至るまで作品に大きな変化がないことから
「マンネリ」と批評する向きもある。

また、1987年の交通事故以来、ギタープレイにかつて無い「荒れ」が
見られ始め、ギタープレイにおけるそれを指摘する者も少なくない。

なお、速弾きばかりが強調されがちであるが、メロディのセンスも秀逸で、
かつブルースもプレイできる。
テクニックのみに走らずロック・ギタリストであり続けようとする姿勢にも
デビュー以来変化はない。

使用機材は一貫してFender Stratocaster
Marshallアンプで、Ritchie Blackmoreの影響が大きい。
ストラトキャスターから発せられる、滑らかだが芯のあるサウンドでの
速弾きは他のプレーヤーたちとは一線を画す。
2008年年末にはメインで使用している「DUCK」を傷などの詳細まで再現された
レプリカがフェンダーより発売される予定。

嫌いな音楽は数あれど特に好きではないのはフュージョンだといわれている。
理由は「ベースが調子に乗って前に出ているから」であるという。

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2008年8月22日金曜日

Aerosmith

Aerosmithはロック界では本当に珍しい事に、年々良いバンドになっている気がします。

The Yardbirdsをはじめ、1960年代のブリティッシュ・ロックという
フィルターを通して、自国の音楽を表現しようとした。

1970年代に第1次黄金時代を築くが、その代償とも言えるドラッグや
人間関係の問題で1980年代前半は低迷。
全員が麻薬中毒の治療のために更生施設に入院。
これは、落ちても這い上がろうとした彼らの執念の表れとして
今も語り継がれている。

その後、ロック史にも珍しい復活(1985年)を果たし、
商業的には1970年代を上回る第2次黄金期を築いた。

1998年映画「Armageddon」のメインテーマを手がけた。
同映画のヒロイン女優、Liv Tylerは、ボーカルのスティーヴンと
ベベ・ビュエルの間に産まれた実の娘。

日本でも大いに受け入れられ、1970年代後半はKISSQUEEN
Cheap Trickと並び、10代に人気があった。来日回数も多く、
1998年には海外アーティスト初の4大ドーム・ツアーを敢行した。

バンド結成当初、ドラマーだったスティーブン・タイラーがヴォーカルと
ドラムスを兼任するはずだったが、目立たないので兼任をやめ、
彼の悪友ジョーイがドラマーとして加入した経緯がある。
尚、バンド名はドラムスのジョーイによる造語。

2001年に『ロックの殿堂』入りを果たす。
他にも今まで『ピープル・チョイス・アウォーズ』2回、
『ビルボード・ミュージック・アウォーズ』6回、
『アメリカンミュージック・アウォーズ』8回、
『ボストン・ミュージック・アウォーズ』23回、
『MTVビデオ・アウォーズ』12回、『グラミー賞』4回など
数々の賞を受賞している。
『ローリングストーン誌』、『ヒットパレード誌』でも
最優秀ロックバンドに選ばれている。

『MTVアイコン』に選ばれた初のロックバンドでもある。

現メンバー

スティーヴン・タイラー(Steven Tyler
本名=スティーヴン・ヴィクター・タラリコ(Steven Victor Tallarico)
=ボーカル、ブルースハープ、ピアノ

ジョー・ペリー(Joe Perry
本名=アンソニー・ジョセフ・ペリー(Anthony Joseph Perry)
=リードギター

ブラッド・ウィットフォード(Brad Whitford
本名=ブラット・アーネスト・ウィットフォード(Brad Arnest Whitford)
=リズムギター

トム・ハミルトン(Tom Hamilton
本名=トーマス・ウィリアム・ハミルトン(Thomas William Hamilton)
=エレクトリックベース・キーボード・ベース

ジョーイ・クレイマー(Joey Kramer
本名=ジョセフ・マイケル・クレイマー(Joseph Michael Kramer)
=ドラムス


一時在籍メンバー

レイモンド・タバーノ(Raymond Tabano
=ギター ※デビュー前にウィットフォードと交代、バンドロゴ考案者
ジミー・クレスポ(Jimmy Crespo
=ギター ※「ナイト・イン・ザ・ラッツ」、「美獣乱舞」参加
リック・ダフェイ(Rick Dufay
=ギター ※「美獣乱舞」参加
デイヴィッド・ハル(David Hull
=ベース ※2006年現在、癌治療中のトムに代わって全米ツアーに参加

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2008年8月19日火曜日

Austin Powers

昨日に引き続き、大好きなMike Myersの作品。

「オースティン・パワーズ」(Austin Powers)は1997年製作の
アメリカ映画、そのシリーズ作品、およびそれらの主人公である。

ジェイ・ローチ監督。
プロデューサーとしてDemi Mooreが参加している。
主演のMike Myersはプロデューサーと脚本も兼ねている。

007シリーズのパロディ(サブタイトルも007シリーズのパロディ)で、
イギリスのモテモテ有能スパイ・オースティン・パワーズの活躍を描いている。

世界中でヒットしたため、第3作目まで製作された。


名前の由来
オースティン・アレグロ(1979年)1980年代まで実在した
イギリスを代表する大衆車メーカー・オースティンから取られている。
なお、同社はスポーツカーメーカーとしても知られていたが、
1970年代以降は低価格と低品質、性能の低さで知られた。


テーマソング

シリーズ共通のテーマ曲はQuincy Jones の「ソウル・ボサ・ノヴァ」。


パロディとなった人物

オースティン・パワーズ
=ハリー・パーマー(国際諜報局)・ジェイムズ・ボンド(007シリーズ)

ドクター・イーブル
=エルンスト・スタヴロ・ブロフェルド(スペクター№1)(007シリーズ)

ナンバー・ツー
=エミリオ・ラルゴ(スペクター№2)(007 サンダーボール作戦)

フラウ・ファービッシナ
=ローザ・クレッブ(スペクター№3)(007 ロシアより愛をこめて)

何でも屋も元プロレスラー
=オッドジョブ(007 ゴールドフィンガー)

ゴールドメンバー
=ゴールドフィンガー(007 ゴールドフィンガー)

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2008年8月18日月曜日

Wayne's world

『ウェインズ・ワールド』(Wayne's world)は、1992年に公開された
アメリカ映画。

人気テレビ番組『サタデー・ナイト・ライブ』の1コーナーを
映画化したもので、日本では試写会にロックファンを呼んで字幕作りに
参加させると言った試みも行われた。

クイーンやアリス・クーパーなど1980年代に活躍したミュージシャンの
楽曲が挿入歌として使われ、ロックに関する小ネタも多いコメディ映画。

日本では興行収入がさほど伸びず、続編『ウェインズ・ワールド2』は
ビデオのみでの発売となったのですが、私には堪らない娯楽映画でした。


キャスト
Mike Myers:ウェイン・キャンベル
ダナ・カーヴィ:ガース・アルガー
Tia Carrere:カサンドラ
ロブ・ロウ:ベンジャミン
ララ・フリン・ボイル:ステイシー


なんといってもMike MyersとTia Carrereが私のツボでしたが、
BRUCE LEEファンの私には、ゲームセンターの社長婦人。

死亡遊戯でLEEのヒロインを演じたコーリン・キャンプじゃありませんか。
かなり「得した」と感じた映画でした。

2008年8月17日日曜日

Bon Jovi

ボン・ジョヴィ(Bon Jovi)は、アメリカ・ニュージャージー州出身のバンド。

リーダーでボーカリストのジョン・ボン・ジョヴィ(Jon Bon Jovi)と
キーボーディストのデヴィッド・ブライアン(David Bryan)を中心に結成された。

後にリッチー・サンボラ(Richie Sambora,ギター)、ティコ・トーレス
(Tico Torres,ドラム)が加入し現在に至る。
耳馴染みのいい楽曲により、ハードロックのファンの裾野を一般大衆に広げた。

日本からその人気に火がついた事は有名で、メンバー全員が大の親日家なのは
日本人の私にはうれしい事です。


ポップロックというには重く、ヘビーロックというには軽すぎる曲は
ハードロックファンには敬遠されがちですが、曲は本当に良く出来ていると思います。


現メンバー
ジョン・ボン・ジョヴィ
(Jon Bon Jovi 本名:John Francis Bongiovi)
vocals/guitar 1962年3月2日生まれ

リッチー・サンボラ
(Richie Sambora 本名:Richard Steven Sambora)
lead guitar 1959年7月11日生まれ

デヴィッド・ブライアン (David Bryan 本名:David Bryan Rashbaum)
keyboards 1962年2月7日生まれ

ティコ・トーレス (Tico Torres 本名:Hector Samuel Juan Torres)
drums 1953年10月7日生まれ

ヒュー・マクドナルド (Hugh McDonald 本名同じ)
Bass 1950年12月28日生まれ・・・
彼はサポートメンバーであり、正式メンバーは上記4人である。

[編集] 脱退メンバー
アレック・ジョン・サッチ (Alec John Such) Bass

2008年8月15日金曜日

Madonna

Madonna

夫はイギリスの映画監督であるガイ・リッチー。
元夫は映画「上海サプライズ」で共演したショーン・ペン
(1985年8月16日に結婚、1989年1月10日離婚)。
愛称は代表曲から来た「マテリアル・ガール(Material Girl)」、
近年では「ポップス界の女王(Queen of Pop)」とも言われる。

80年代初頭のニューヨークのダンスクラブ・シーンに登場し、
1984年の大ヒット曲『ライク・ア・ヴァージン』を機にポピュラー音楽の
チャートで成功を収め、その大胆で挑発的なイメージで一躍世界的なメガスターになる。
アルバムの代表作に『トゥルー・ブルー』、『ライク・ア・プレイヤー』、
『レイ・オブ・ライト』などがあり、シングルの代表作に『ホリディ』、
『クレージー・フォー・ユー』、『ヴォーグ』、『ミュージック』、
『ハング・アップ』など多数がある。

MTVの登場により人気を得たミュージック・ビデオを巧みに活用しながら
ポップアートと音楽を融合し、現象的な成功[1]を収める。
セックス・シンボルとして不動の位置を固めるが、その後多様なイメージの
変遷を繰り返し現在に至る。
彼女の活動は音楽にだけに止まらず、レコード会社の設立、映画や舞台への出演、
そして近年では児童書の執筆や映画監督なども行っている。
2000年の『ギネスブック』では「史上最も成功した女性アーテイスト」とも記録された

2008年には、ロックの殿堂入りを果たしている。


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2008年8月14日木曜日

The Rolling Stones

The Rolling Stones
ローリング・ストーンズ (The Rolling Stones) は、ロンドンで結成され
1963年にレコードデビューしたイギリスのロックバンド。
ロック草創期の1960年代から現在まで40年以上、一度も解散することなく
第一線で創作を続ける、ロック・バンドの代名詞的な存在である。
エアロスミス、ガンズ・アンド・ローゼズ、オアシスなど
ローリング・ストーンズを崇拝するアーティストは数知れない。


現在も根強い人気があり、ステージでの演奏には定評がある。
2007年現在もスポンサーのバックアップ等により大規模なツアーを行っている。

バンド名はシカゴブルースの巨匠、マディ・ウォーターズの
"Rollin' Stone"にちなんで、当時リーダーであったブライアン・ジョーンズが命名。

全世界でのアルバム総売り上げは2億枚以上である。

ローリング・ストーンズの音楽的ルーツは、黒人音楽のブルースにある。
デビュー曲の「カム・オン」はチャック・ベリーのカバーである。
彼らがデビューした1960年代初期、アメリカにおいてはまだまだ
黒人に対する差別が根強く、「ブルースのレコードジャケットには、
黒人の顔写真を載せてはならない(黒人ミュージシャン本人の顔写真を含む)」
という慣習のある州さえ多かった。
こうした時代にイギリス出身の白人のグループでありながら、
黒人の音楽であるブルースを心から尊敬し、影響を受け、
黒人になりきって歌や演奏に表現しようとしたバンドが
ローリング・ストーンズである。
彼らは更に、ブルースだけでなく、モータウンやスタックスといった
レコード会社に代表される、同時代の黒人音楽も吸収。

こうした点でローリング・ストーンズは、「白人なのに黒人のように
ブルースを歌える」とされたエルビス・プレスリーや、さまざまなジャンルの
音楽を取り入れた「アングロ・サクソン的」なビートルズとは一線を画している
(ここで言う「黒人的」あるいは「アングロ・サクソン的」とは、人種や
民族の優劣とは全く関わりなく、音楽的フィーリングや表現方法の違いに
すぎないことを念のため付記する)。
ローリング・ストーンズの活躍は、黒人音楽にルーツをもつ、他の白人
ミュージシャンが1960年代後半から1970年代初頭にかけて、米英などで多数登場
するきっかけとなったともいえる。

ストーンズのサウンドの欠かせない特徴として、その独特のリズムがある。
本来バンドであればドラムとベースの絡みが重要といわれているが、
このストーンズは一味違う。
そのリズムの核となるのは、チャーリー・ワッツのドラムス、
キース・リチャーズが弾き出すリズム・ギターにある。
この二人が絡むことで、その独特のリズムが生まれている。
ギターがドラムと絡み合うことで、当然ベースも独特な演奏をしていて、
サウンドの核となるキースのギター・ラインと、そのギターに絡もうとする
他の楽器パートの隙間を、まるで縫い合わせていくように弾いていることに特徴がある。
キースのギターが中心となってバンドの音を引っ張っていっていると
言ってもいいそのサウンドは、まさに唯一無二である。
しかし、残念ながら1993年にビル・ワイマンが脱退して以来、
そのリズムが変わって、サポート・メンバーであるダリル・ジョーンズの
弾くベースはより安定したものながらも、それに古くからのファンは
「不満」があるようである。

ローリング・ストーンズは、さまざまな流行の音楽をも取り入れ、
一部のメンバーの交替や、さまざまなアクシデントを乗り越えつつ成長し、
デビュー40年周年を超えた21世紀に至ってもなお、ブルース
(リズム・アンド・ブルース)ルーツのロックンロールという音楽で、
第一線で現役を貫き通している。

2008年8月12日火曜日

BRUCE LEE

Dont`Think, Feel!」

この言葉がいまだに耳から離れない私です。

さて、そのBRUCE LEEの生い立ちですが、

出生・幼少時代
父親の中国系で広東演劇の役者、李海泉とドイツと中国系の母親
グレースが家族を連れて長期アメリカ巡業中、辰年の1940年11月27日、
辰の刻(午前8時)にサンフランシスコのチャイナタウンの病院で生まれた。
五人兄弟の次男(兄ピーター、姉フィービー、アグネス、弟ロバート)。
映画には芸名の李小龍で出演している。生後3ヶ月あまりで
サンフランシスコで製作された映画『金門女』(中国)に出演した。
その後香港に帰国、8歳頃から子役として数多くの映画に出演。
幼少より、中国武術(中国大陸では武術、台湾等では国術(國術)とも
呼ばれる。
海外ではカンフーの名称が一般的だが、空手や拳法と誤認される
こともある)の一派である詠春拳の葉問(イップ・マン)の指導で
中国武術を身につける。
少年の頃、道場にはバスで通い、バス停で他の生徒に「今日も休みだ」
と嘘をついて帰らせ、葉問の個人レッスンを受けたという逸話がある。
また上海精武体育会香港分会にて北派少林拳の邵漢生に指導を受け、
節拳(弾腿門)などを学んだ。


不良時代、渡米・結婚
香港では、喧嘩が法律で禁じられていた。
しかし、俳優の息子で自らも映画に出演し、当時でも珍しい中国服を
着ていたことから街で目立ち、気性が荒かったリーは
「何をジロジロ見てるんだ」と難癖をつけて、毎日のように暴力沙汰を
起こしていた。
16歳で香港のラサール学院を退学処分となりフランシスコ・ザビエル校に
編入しても、喧嘩を繰り返した。また、ダンスのチャチャチャの
コンテストで優勝するなど、勉学よりも喧嘩や女性との交際に熱中していた。
何不自由なく育ったリーの将来を心配した父は、「俳優の不良息子
」として悪名を知られた香港から離し、渡米を命じる。
(米国で出生届を出していたので永住権があった)
18歳のリーは、わずか100ドルの所持金で単身渡米し、シアトルに移り住む。
新聞配達のアルバイトをして職業訓練学校シアトル・セントラル・カレッジに
通い高校卒業資格を得て、ワシントン大学哲学科に進学。
勉学に励むかたわら、「振藩國術館」を開いて中国武術の指導を始める。
高校で哲学の講師もしていた。その頃、同じ大学の医学生で、
道場の生徒だったリンダ・エメリーと結婚。その後、大学を中退し、
道場経営に専念。

截拳道(Jeet Kune Do/JKD/ジークンドー)を創始する。


武道家からアクションスターへ
1966年、アメリカの「ロングビーチ国際空手選手権大会」で
JKDの演武をしたフィルムが、TVプロデューサーの目に止まり、
TVシリーズ『グリーン・ホーネット』の準主役に抜擢される。
正義のヒーロー「グリーン・ホーネット」の助手兼運転手として
目だけを隠すマスク(このマスクは、後に映画『キルビル』で
「カトーマスク」と呼ばれる)を付けた日系人のカトー役を演じ、
派手なアクションで人気を博す。
これをきっかけに、ロサンゼルスでハリウッドの俳優やプロデューサーを
顧客に武術の個人指導をするようになり、TVや映画などのゲスト出演を重ねる。
カトー役のイメージのため、リーを日本人だと誤解しているアメリカ人も多かった。
『グリーン・ホーネット』の後、アメリカの連続テレビドラマ
『燃えよ!カンフー』を企画し、自ら主演を願った。
しかし、東洋人であることなどを理由に主演の望みは叶わなかった
(主人公の混血児ケインを演じたのはデビッド・キャラダイン)。

1970年、香港の大手映画会社ショウ・ブラザーズ(邵氏兄弟有限公司)から
独立したレイモンド・チョウ(鄒文懐)が設立したばかりの
ゴールデン・ハーベスト(嘉禾娯楽事業有限公司)と映画出演の契約をする。
翌1971年に成人後の初主演映画『ドラゴン危機一発』が公開され、
香港の歴代興行記録を塗り替える大ヒットになった。
リーは、一躍、香港のトップスターに躍り出る。主演第2作の
『ドラゴン怒りの鉄拳』(1972年)では主演と武術指導を担当し、
3作目の『ドラゴンへの道』(1972年)では、自ら
「コンコルド・プロダクション」(協和電影公司、
ゴールデン・ハーベストとの共同出資)を設立し、製作・監督・脚本・主演の四役を担った。
この3作によって、リーは香港で不動のトップスターの地位を築き、
ゴールデン・ハーベストは興行収入で香港最大の映画会社となった。

1972年秋からリーの2作目の監督映画『死亡遊戯』の撮影がスタートする。
ところが、ハリウッドのワーナー・ブラザーズとコンコルド・
プロダクションとの合作映画の企画が持ち上がり、『死亡遊戯』の
製作は中断される。
1973年1月から、米国と香港の合作映画『燃えよドラゴン』
(ロバート・クローズ監督)の撮影が始まる。
かつてハリウッド映画への主演がかなわなかったリーの意気込みは
並々ならぬものがあり、エキストラへの武術指導に始まり、
脚本や撮影にも詳細な意見を出した。
リーはクローズ監督に、「この映画の出来を気にしているのは、
あなたと私だけだ」と語った。
映画の冒頭、リーが少年を相手に「Don't Think. Feel!
(考えるな、感じろ!)」と語る台詞はあまりにも有名だが、
この部分はリーが香港公開用に自ら監督をして勝手に撮影したもので、
当初の脚本にはなかった。
撮り終わったフィルムを見たクローズが、米国公開版にも採用した。


死去

香港のブルース・リーの銅像1973年7月20日、リーは、『死亡遊戯』
で共演予定の女優ベティ・ティンペイ(丁珮) の香港の自宅で頭痛を訴え、
鎮痛剤(アスピリン)を飲んでベッドに横になった。
しかし、そのまま昏睡状態に陥ったため、ティンペイはレイモンド・チョウ
(鄒文懐)を呼び、そのままクィーン・エリザベス病院へ搬送されたが、
死亡が確認された。
公式な死因は脳浮腫(のうふしゅ)である。司法解剖の結果、
微量の大麻が検出されたほか、脳が極度に肥大化していた事が判明した。
リーは、『燃えよドラゴン』の撮影を終えた1973年5月にも同様の症状を
訴えており、死因は背中の古傷に長年使っていた痛み止め薬と、
その晩に服用した頭痛薬の副作用と言われている。享年32。

葬儀は、香港とシアトルで行われた。
香港では数万人のファンが葬儀に押し寄せ、シアトルの葬儀にはリーの
弟子だったジェームズ・コバーンやスティーブ・マックイーンも参列した。
(この葬儀の様子は『死亡遊戯』の中で実際に使われている)
遺体はシアトルダウンタウン近くのレイクビュー墓地に埋葬された。
リーの死後、彼が待望していたハリウッド主演作『燃えよドラゴン』が
米国を皮切りに全世界で公開され、大ヒットとなった。
しかしアクションスターとして世界的な知名度を得た時、
既にリーは亡くなっていた。(日本公開は1973年12月22日)
死後、『ドラゴン危機一発』などの過去の映画が世界中に配給された。

2008年8月11日月曜日

EARTH,WIND & FIRE

機能のblogでもちらっと書きましたが、私がEARTH,WIND & FIRE
知ったきっかけは、イラストレーターの長岡秀星・Shusei Nagaoka師匠でした。


高校の頃、何かの雑誌での特集で名前を知り、
「え?日本人で外国のアーティストのジャケットを描いてるの?」
かなり驚いてその細密なタッチのイラスト達を眺めていたのを思い出します。

私はエアブラシを使ったイラストは今でも好きじゃないし
細々と描き入れている面相筆のタッチに驚いただけなのですが
それでも長岡秀星師匠とアースの存在は、それ以降頭に刻み付けられてしまいました。

何よりJAPANESEが海を渡ってアメリカでILLUSTRATIONSを描いているという
驚きは、同じ日本人としてはうれしい限りでした。


さてこのEARTH,WIND & FIRE、全盛期はモーリス・ホワイトとフィリップ・ベイリーの
ツインヴォーカル、重厚なホーン・セクションと程良いコンピューターの打ち込みによる
電子音を取り入れたのが特徴であった。

1980年代半ばには、その大きな売りであった生のホーン・セクションに、
他のバンドに先駆けてコンピューターの打ち込みによる電子音中心のバンド形式に変え、
実験的な音作りも取り込んだ。現在は、パーキンソン病にかかってしまったモーリスに変わって、
フィリップが中心メンバーとして活動している。


日本での人気の高さは本国アメリカを完全に凌いでおり、1970年代~1980年代初頭の
ディスコ世代にとってはカリスマ的存在となっている。幾度となく来日公演を行っているが、
リーダーのモーリスは数年来患っているパーキンソン病の影響のため、
2004年に行われた来日公演がモーリス込みで最後の公演とも噂される。

2008年8月10日日曜日

ILLUSTRATIONS

元々イラストレーターになりたいと思っていた私は、
映画のポスターやCDジャケット、本の表紙などのデザインや絵を
人より注意深く見ていた一人だと思います。


STAR WARSの項で書きましたが、生頼範義(おおらいのりよし)師匠という
私の心の師(イラスト部門)が、イラストレーターという選択肢を
私に与えてしまったのですが(結局私はイラストレーターになっていませんが^^;)
その後、SF好きという事から当時SFマガジンという雑誌の表紙を飾っていた
加藤直之師匠やスタジオぬえの皆さん、海外ではフランク・フラゼッタ師匠や
ボリス師匠にも傾倒し、だいぶんと「無駄ではない人生の寄り道」をしてしまいました^^


ここでただの挿絵好きで終わるだけなら良かったのですが、
その後好きになったハードロックでも私が好きだったイラストレーターが
ずいぶんと活躍しているという事実を知ってしまい、そのリンクっぷりに
尚更「これって運命的なのかな?」というイタイ発想に陥ってしまい
完治までの道のりが長引いた事も追記しておかなくてはなりません。


例えば、サザンロックの雄、MOLLY HATCHETYNGWIE MALMSTEEN
アルバムに使われているフランク・フラゼッタ師匠。

OZZY OSBOURNEのアルバムではボリス師匠、EARTH,WIND & FIREでは長岡秀星(Shusei Nagaoka)師匠、
もちろん生頼範義師匠も一時期の日本のヘヴィーメタルアルバムには
異常な頻度の露出っぷりでした。

元々スパルタンでマスキュラスなイラストが好きだった私の嗜好と
HEAVY MUSICのヴィジュアライズという販売者の思惑が一致した
だけなのでしょうが、私にとっては、これすらが「運命」^^


本の挿絵もCDのカバーも両刃の剣、内容にピッタリとマッチした
イラストの破壊力は想像を絶しますね。

2008年8月9日土曜日

T-REX

日本ではなぜかCMなどで人気で、数年置きにテレビで流れるマーク・ボランの曲達。
何かのきっかけで私がはじめてT-REXのCDだかLPだかを聴いた時も「あ、これ知ってるわ」のオンパレードでした。
そういう点で、非常にとっつきやすい第一印象でした。
デビッド・ボウイをちゃんと聴いた事がない私にとってT-REXは私が聴いた唯一のグラムロックなのですが、他のグラムロックアーティストを知らない私にさえ「これ(T-REX)がグラムロックの本流では無いんだろうな」という印象を拭えません^^
私にとっての印象は、グラマラスな音楽やビジュアルというよりも「ブギー」の一言に尽きるのです。
なんて心地よいリズム、声、ギターの音よ。
DEF TECでルーズな音が非常に心地よく、程よい脱力感で癒されます。

お勧め曲は2つあって、まずは私の中のロッククリスマスソングの堂々TOP1「CHRISTMAS BOP」です。
テイチクレコードが一時期毎年のようにT-REXの企画アルバムを出していたのですが、その中のクリスマスボックスという中ではじめて耳にしました。
最初はファンクラブ用の曲だったのかも知れませんが、とてもハッピーな気持ちでその年のクリスマスを迎える事が出来た事を思い出します。
もう一曲はおなじみ「BORN TO BOOGIE」
コメントも必要ないですよね^^HAPPY BOOGIE!

2008年8月8日金曜日

YMO

「TOKIO TOKIO 」
いやぁ、びっくりしましたね。
当時中学生だった私が例によって深夜ラジオに聞き入ってると突然私の耳を爆撃した音のカルチャーショックです。
歌謡曲育ちのはなたれ中学生の私にとっては即座に何が起こったか理解できず、「訳がわからないんだけど図抜けてかっこいい」としか感じる事ができませんでした。
音楽に衝撃を感じた最初の存在がYMOである事は間違いありません。

私は、凄い文化に触れるとそれを自分でもやってみたくなります。
実際にする・しないは別として
凄い歌を聴くとその歌を歌ってみたくなるし、凄い絵を見るとそんな絵を描きたくなるし、凄い映画を観るとそんな映画を撮ってみたくなるし、凄いロックを聴くとそのギターソロを弾いてみたくなります。
それが出来る自分にあこがれるのですが、YMOに関しては、自分に出来るという気すらしない。
只ただ、異質の文化に触れる事が出来たという喜びでいっぱいでした。
その後テクノポップが世界を席巻し、衰退し、YMOの曲調自体も変遷していったのですが、前半のアグレッシブさは今聴いても衰えませんね。
一言で言えば「COOL!」に尽きるのです。
お勧めの一曲は「ライディーン」
この曲だけでご飯3杯はイケます^^

2008年8月7日木曜日

たどりつけばアラスカ 「NORTHERN EXPOSURE」

ありゃ、ついにタイトルに日本語入れちゃった^^
私の中の「外国テレビドラマTOP3」のぶっちぎりの第一位です。
初めて観たのは今から10年程前、和歌山に住んでいた頃、水曜日の深夜にひっそりとやってたのを、仕事から帰って何の気なしに観たのが最初。
最初はボ~っとNORTHERN EXPOSUREを眺めるように観ていて、「なんか変なドラマやなぁ」くらいに思っていたんですが、仕事の都合で、回を飛ばしながら何度か偶然に観るうちにすっかり虜になってしまいました。
当時、というか今でも、誰にこのドラマの話をしても「さぁ?知らんなぁ」という見事なまでのマイナーっぷりを発揮していたのですが、その数年後、インターネットを覘くようになってファンサイトがある事を発見。
変なところでネットのグローバルさを痛感した次第でした。
そのサイトの訪問者数名と、ドラマのDVD化へ向けての草の根運動をはじめたのですが、私の仕事の事情で、その後連絡も取れなくなったままなのが今でも心残りで仕方がありません。

アメリカでもエミー賞を獲得した人気ドラマのようですが、私にとっては、もっとも「癒される」ドラマの最右翼。
まず日本のドラマにあんな構成のモノは求められないし、本国でもきっと異質なドラマだったのだろうと思います。
私が観た時には、本国で放映されて既に5年以上経っており日本でも恐らくCSなどで放映された後の深夜枠のを観ていたのだと思います。
もっと早く知っていれば、少なくともタワーレコードでサントラくらいは入手できたのにと、めぐり合わせの遅さを後悔した唯一の作品です。
今でも、秋から冬にかけて、肌寒くなってくると必ず観たくなるのです。
なので、きっともうじき観たくなる^^;

2008年8月6日水曜日

JIMI HENDRIX

他界して早30年、今なお異質の、そして孤高の存在JIMI HENDRIX
ジミ師匠の事を一言で表現すると、
「エレクトリック・ギターというおもちゃの可能性を世界で一番最初に極限にまで広げたアーティスト」
になると思います。
ギターから発する音すべてを音楽として成立させたマジシャン。
ジミ師匠の仕事ぶりを、当時リアルタイムで目撃した他のアーティストはさぞ嫉妬した事だろうと思います。
当時のフラワームーヴメントやサイケデリックな時代を知らない私にはことさら強く感じる、クラシックの対極に位置する猥雑の極み。
一見、無駄だらけの装飾音に思えながら、実はそれこそが全く脂肪の無いパンプアップされた音の筋肉、骨格。
正に時代を作り上げ、時代を駆け抜けて行った寵児。
もうギターの音に興味がある人にしか支持されない時代になったけど、ギターの持つ可能性を考えた時、必ずみんなここを通る事になる、そんな偉大なミュージシャン。
ちょっと褒め過ぎですか?^^
今年も夏が来ました。
お気に入りのジミ師匠のT-シャツを着て、子供とセミ採りをしたいと思います。

お勧めの一曲は「ALL ALONG THE WATCHTOWER」これはジミ師匠の曲じゃなく、ボブ・ディランの曲(らしい)
けど、最高^^

2008年8月5日火曜日

JAMES BROWN

でましたね、SOULの帝王。
ソウルの北島三郎なのか、サブちゃんが演歌のJAMES BROWNなのか。
どっちにしろ、ショウ・ビジネスという、いかがわしく泥臭い中での実績や立ち位置には共通する部分が多いお二人。
そんなジェームズ師匠の音を知ったのは、もうロッキー4で歌ってた後でしたのでかれこれ20年程前になると思います。
当時私の中でブームだった、輸入の格安音楽テープを漁っていた際にジェームズ師匠の「GRAVITY」というアルバムを買った事から始まりました。
ところがいつもの私なら、気に入ったアーティストはオリジナルアルバムを順次攻撃していくのですが、ジェームズ師匠に関してはちょっと状況が違ってました。
芸暦が長いせいか、通ってたCD屋がショボいのか、オリジナルアルバムが売ってない。
当時最新だった「GRAVITY」は売られていたのですが、その他はベスト版ばかり。
しかも国内版、輸入版問わず、おびただしい量のベストが販売されていたのです。
この種類の多さはさすがに天下のジェームズ師匠!って感じではありますがそこからはひたすらいろんなベスト版を聴き漁りました。

曲がカブる事カブる事^^;
それぞれの時代によって曲調は当然変わってきているのですが、一貫しているのは、「濃厚」であるという事。
初期の代表曲「PLEASE,PLEASE,PLEASE」などは時代的にも「オールディーズ」の一言で片付けられるくらいシンプルなものですが、それでもあの搾り出すような声、やはり相当「濃い」ですよね。

お勧めの一曲は「REPEAT THE BEAT」ですね。
あくまで「意外なところで」という意味での選曲ですが^^

2008年8月4日月曜日

KULA SHAKER

元々インドへの憧れが強い私は、いつか行ってみたい国の一番がこの20数年ずっと変わっていないくらいのインド好きです。
一曲の長さが60分くらいあるシタールのCDを聴いてだらだら過ごす事も以前はよくやっていました。
ビートルズのメンバーがインドに傾倒していた事は有名ですが、元来のひねくれ根性から、ずっとビートルズを避けて通ってきた私にはそれがどの程度なのか全く想像できません。
そんな私がその「いんちきインド臭さ」にノックアウトされたのが今回ご紹介する、KULA SHAKERです。
もう、たまらんですね、このうさん臭さ^^
オールドロックの一番おいしい音を取り出し、インドスパイスを効かせたおいしい無国籍料理を出された感じ。
素敵なのは、そのどれもが「なんとか風」であるという事。
混ぜ切って新しい何かを生み出すまではいかず、混ぜ方も中途半端な感じが私にはたまらなく愛おしいのです。
最近、再結成されたようですが、音は全く確認していません
お勧め曲は「HUSH」、ちなみにこれにはインド臭さは全くありません。
DEEP PURPLEの曲のカバーなのですが、原曲より数段素敵です。
オリジナル曲よりカバー曲の方が圧倒的に素晴らしいと思える事って滅多に無いとおもいません?
この曲は数少ない、そういう曲なのです。

2008年8月3日日曜日

STAR WARS

小学生の頃、友人の島田君が休み時間に「今度、メチャメチャ大きい戦車が出てくる映画やるらしい」と言ってきました。
「へぇー、すごいなぁ」と、当時の私も勝手に大きさを想像しながら驚いていましたが、その話もすっかり忘れて中学生になった時、たまたま父親から招待券をもらって観た映画で、島田君との話を思い出しました。
それが、STAR WARS
いやぁ、衝撃でしたねぇ。
頂いた招待券というのが、大阪のOS劇場というシネラマスコープ上映(だったかな)方式の映画館。
普段めったに映画館で映画なんか観ない子供が、普通の映画館よりも大きなスクリーンで、過去に無いスケールの映像とストーリーの映画を観る。
「すごいモノ観てしもた」
みたいな気持ちになって興奮しながらエンドロールを名残惜しげに眺めていた事を今でもはっきり覚えています。
思い返せば過去に何度か、衝撃を受けるくらいの文化に触れた事があるのですが、そういう経験ってありがたいですよね。
スター・ウォーズも間違いなくそのうちの貴重なひとつ。
素敵な経験をありがとう、父さん。
スター・ウォーズに関して言えば、実はもうひとつ衝撃的な文化に触れる事が出来ました。
2作目(エピソード5)のポスターを描いた日本人画家、生頼範義(NORIYOSHI ORAI)師匠との出会いがそれ。
私がイラストレーターになりたいと、初めて自分の将来について考えるきっかけになりました。(結局なれませんでしたが)
こんな素敵な影響を私に与え続けているスター・ウォーズ、6作ありますが、お勧めは文句無く1作目(エピソード4)。
理由は簡単、この1本だけでストーリーが完結するから^^

2008年8月2日土曜日

OZZY OSBOURNE

今回はブラック・サバスではなくソロ名義のバンドのほうをご紹介。
ギタリストに対して非常に「鼻が利く」OZZY OSBOURNE師匠。
ランディー師匠、ジェイク師匠、ザック師匠、一時的なヘルプとしてはブラッド師匠やスティーブ師匠まで有能なギタリストを発掘する事にかけては見事に才能を発揮しています。
将来を有望視されながらも事故で亡くなった事へのオマージュも含めて現在でもランディー・ローズ在籍時の、ソロ名義最初の2作について語られる事が多いのですが、では他の2名が駄目なのかといえば
・・・とんでもありません。
このソロ名義のバンドの音は、ギタリストとその時代が非常にわかりやすく反映しているのです。
ランディー師匠の曲はハードロックが世界規模になる直前、程よくシャープでブリティッシュなサウンド。
ジェイク師匠の音は、正に全盛だったメタルシーンの特徴である乾いたスタイリッシュリフのオンパレード。
ザック師匠は、音自体が非常に骨太でオールドロックのテイストがそちこちにちりばめられています。
よくよく考えると、ソロ名義でこれだけギタリストの色を反映させてるバンドって、他に無いような気がします。
そりゃギタリストにとってはやりがいありますよね、そこまで好きにさせてくれりゃあ。
お勧め曲は「MOTHER EARTH」、この曲のエンディングへ向けての盛り上がりはちょっと言葉を失いますよ。
ギターはやっぱりランディー師匠なんですが^^;

2008年8月1日金曜日

THE CROW

はい、今回は映画「THE CROW」でごわす。
私が敬愛するBRUCE LEE師匠のお子さん、ブランドン師匠の遺作です。
ブランドン師匠が死んでいなければ恐らく観なかったと思いますが、映画自体の完成度からブランドン師匠の死にまつわる話まで、とにかくいろんな意味で「よく出来ている」映画と言えます。
まず映画そのものが面白い。ただ、なぜ面白いのか自分でもよく判りません。
突飛なストーリーでもなく、凄いアクションでもなく・・・
けど、面白い^^
ひとつは、画面全体を支配している「ムード」かも知れません。
ロックが好きな人には特にお勧めします。

主役のブランドン師匠がこの映画の撮影中に死んだので、最新のCGなどを使って完成させたそうです。
お父さんの遺作「死亡遊戯」も、同じ方法で作り直してもらえませんか?
あまりソックリじゃないそっくりさんと、前の映画のつぎはぎではブルース師匠が可愛そう過ぎます。

そして上にも書きましたが、主役のブランドン師匠がこの映画の撮影中、空砲で撃つハズのシーンで、なぜか実弾で撃たれたそうです。
ちょっとゾッとしますね。
父であるブルース師匠の映画のワンシーンそっくりじゃないですか。
誰かが何かを狙っての巧妙な「何か」なのでしょうか?「大人の事情」にしても怖すぎですね。